関美和が翻訳したジョン・キャリールー (著)「BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相」は2021年に出版されています。
「一滴の血液ですべての病気が診断できる」と大風呂敷を広げて、投資家から1000億円近くを集めたセラノスのエリザベス・ホームズに有罪判決が下されたのは2022年の年明けである。一時期のセラノスの企業価値は1兆円を超え、エリザベスは「ジョブズの再来」ともてはやされ、フォーブス誌のセルフメイド・ビリオネアのリストにも名前が載った。だがウォール・ストリート・ジャーナルの記者による丹念な調査報道でその嘘が暴露され、セラノスは破綻。エリザベスは詐欺罪で起訴された。
世間の多くの人は、なぜこんな途方もない嘘にたくさんの賢い人たちが騙されてしまったかを不思議に思うかもしれない。ここに、スタートアップにおけるガバナンスの難しさが集約されている。
Fake it till you make it
投資家は(世間もマスコミも)大きな夢を語ってくれる起業家が大好きだ。これをちょっと綺麗な言葉で言い換えると「成長戦略」とか「エクイティ・ストーリー」ということになる。「世界を変える」と大志を掲げなければ、莫大な資金は調達できない。「崖から飛び降りながら飛行機を組み立てる」のがスタートアップなのだ。ただし、その飛行機がきちんと飛ぶ代物かどうかはわからない。それでも「飛行機建築の専門家」のふりをして投資家を安心させられるかどうかに生き残りがかかっている。このことが業界におけるfake it till you make it 文化を醸成してきた。エリザベスもその文化にどっぷりと浸かった起業家のひとりだった。
多様性ゼロの取締役会
投資家やマスコミがセラノスを信用した理由のひとつは、取締役会の豪華な顔ぶれである。冷戦を集結に導いた元国務長官のジョージ・シュルツ。海兵隊出身でマッド・ドッグと呼ばれその後トランプ政権の国防長官となったジム・マティス。そしてあのヘンリー・キッシンジャー。科学アドバイザーとして後ろ盾になったのはスタンフォード大学のスター教授であるチャニング・ロバートソン。メンターとなったのはオラクル創業者のラリー・エリソンである。全員が高齢の白人男性だ。しかも錚々たる肩書きの。ただし、この取締役会は機能していなかった。経歴も性別も年齢も属性も似たような人たちの集まる取締役会では異論も批判も出ず、科学の専門知識もない取締役たちはエリザベスの言葉を鵜呑みにし、財務諸表さえチェックすることもなかった。取締役とアドバイザーは大量のストックオプションを受け取り、エリザベスの唱える明るい未来だけに目を向けていた。
パワハラと隠蔽
セラノス社内ではパワハラと隠蔽が日常茶飯事だった。長時間労働が忠誠の証とされ、エリザベスの親族が重要な地位につき、部署間のコミュニケーションは意図的に断絶されていた。エリザベスとその恋人だったサニー・ベルワニに異論を唱えたり、疑問を投げたりするだけでもすぐにクビになった。社員はガチガチの秘密保持契約に縛られて、不正を表沙汰にできなかった。退職後に誰かに口を開こうとすると、強面の弁護士から訴えると脅かされた。株主も取締役会も、こうした企業風土を精査することはなく、パワハラと隠蔽は長いこと表に出なかった。
素人投資家と素人マスコミ
セラノスの株主にはヘルスケア専門ファンドもいたが、大半はいわゆるファミリーオフィスと言われるアメリカの超富裕層が運用する個人資産会社だった(皮肉なことにエリザベスの嘘を暴いたウォール・ストリート・ジャーナルを参加に抱えるフォックスグループ会長のルパート・マードックも大株主のひとりだった)。投資家向けの目論見書には、フォーブズ誌に載ったエリザベスの記事や、大手製薬会社のロゴ入りの報告書などが添付されていた(このロゴ入り報告書はのちに改ざんとして裁判で取り上げられた)。マスコミに取り上げられたエリザベスの言い分や有名医薬品ブランドの威力によって、プロダクトの検証もそこそこに投資家たちは財布の紐を緩めたのである。エリザベスを大々的に取り上げたマスコミもまた、専門家への裏どりよりも著名なスター取締役たちのお墨付きに頼っていた。
本物と偽物の曖昧な一線
「崖から飛び降りながら飛行機を組み立てる」という先ほどのたとえは、ソフトウェアなら許される。ソフトウェアにバグがあっても人が死ぬことはないからだ。ただし、医療機器や食品となると話は別である。血液検査の結果は命に直結する。セラノスが大切にすべき顧客は医師であり患者であったはずなのに、エリザベスは自分が広げた大風呂敷に固執して、投資家やウォルグリーン(セラノスが契約したドラッグストアチェーン)への約束を優先させてしまった。セラノスは極端な例でわかりやすいと思われるかもしれないが、実際には本物と偽物の見分けは簡単ではない。エリザベスが自社のテクノロジーで世界を変えようと思っていたことは疑いのない事実で、その一点に関して嘘はなかったのだと思う。(その証拠に、エリザベスは自社株を最後までひと株として売却することなく保有し続けたことが、裁判でも強調された)
他山の石
自分がセラノスのような会社にひっかからない自信はまったくない。むしろ、いつひっかってもおかしくないと思っている。経営者の大風呂敷が真っ赤な嘘なのか崇高な志なのかを見分けるのは非常に難しい。ユニコーンとは壮大な大風呂敷が実現されてしまったケースであり、投資家はそんなチャンスを喉から手が出るほど求めているからだ。そんな自分の「騙されたい気持ち」を素直に認めた上で、危険信号になりそうな項目をいくつか挙げてみる。いずれも常識ではあるものの、改めて肝に命じたい。
・オールスター取締役に気をつけろ!:特に同質性の高すぎる集団には要注意。取締役にその業界の専門家がいない場合はさらに気をつけた方がいい。
・社外取締役やアドバイザーに大量のストックオプションを配る会社に気をつけろ!:無意識かもしれないが、大量のストックオプションを持っていれば暗い話は聞きたくなくなってしまうのかもしれない。独立性や中立性が棄損されるリスクは小さくない。
・マスコミの言うことに気をつけろ!:フォーブスやウォール・ストリート・ジャーナル、あるいは日経にデカデカと取り上げられているからといって、その話が真実だとは限らない。用心しているつもりでも、そうした記事によってサブリミナルのように良くも悪くも先入観を植え付けられるものだ。
・素人投資家に気をつけろ!:ガチのバイオやディープテックなのに投資家リストに専門ファンドが株主に入っていない場合には、何かがおかしいと疑ってみた方がいい。
・まずはプロダクトを使ってみろ!:セラノスの場合には、すでにウォルグリーンという薬局で誰でもセラノスの機器を使った検査が受けられる状態にあった。(プロダクトが世に出ていない段階で投資した人たちもいるが、ローンチ後にも莫大な資金が流入していた)もし、ウォルグリーンに出向いて検査を受けていたら、一滴の血液ですべての病気がわかるという宣伝文句と実態が違っていたことはすぐにわかったはずだ。
・小さな嘘より壮大すぎる嘘の方がバレにくい:エリザベスがついた嘘の中でも最も壮大なものはセラノスの装置がすでにアメリカ軍に採用され、アフガニスタンやイラクで兵士の命を救っているというものである。それ以外にも、ジョンズ・ホプキンス大学で効果が証明されただの、大手製薬会社が効果を実証しただの、嘘のレベルが壮大なのである。「まさかそこまでバレバレな嘘はつかないだろう」と思うような嘘の方が実はバレにくいものなのだ。
スタートアップのガバナンス
知的にオープンであると同時に謙虚であることはとても難しい。悲観したり批判したり粗探しをするのは簡単で、賢く見える。だが楽観的なリーダーの方が大きな夢を実現に導ける可能性は高い。そこで、楽観的な起業家が大風呂敷を単なる「嘘」として終わらせず、「誠実な努力」へと昇華させるための推進剤となり防波堤になるのが、スタートアップにおけるガバナンスの役割ではないかと思う。多様性の担保はただの流行ではなく、盲点を表に出し不祥事のリスクを軽減するためのツールになる。パワハラにビクビクせず上司の顔色を伺わなくていい組織では、大失敗の芽を早い段階で発見でき、イノベーションが生まれやすく、優秀な人材が夢の実現に力を注ぐことができる。もしセラノスが、調達した1000億円の資金のほんの一部でもガバナンスに投じ、多様で客観的な経営陣と取締役会が「できること」と「できないこと」を早い段階で直視し、風通しがよくみんなの働きやすい組織を築くことに努力していたら、本当に世界を変えることができたかもしれないと思ってしまうのは私だけではないはずだ。
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